モンサンジョンとの3日間 in Tokyo(その4 ~ 第3日)[2005]

●9/29(木) 銀座ヤマハホール
モンサンジョンとの3日間 in Tokyo
[第3日/昼の部(途中から)・夜の部]

[昼の部(映画上映)](途中から参加)

*「謎(エニグマ)蘇るロシアの巨人」
リヒテル/ピアノ

[夜の部(演奏と鼎談)]

*演奏
(ピアノ)ピョートル・アンデルジェフスキ
 バッハ / イギリス組曲 第6番 ニ短調 BWV811

*鼎談「演奏家のオーラ ~ リヒテルの場合 ~」
ブリュノ・モンサンジョン / 映像作家
中地義和 / 東京大学教授
ピョートル・アンデルジェフスキ / ピアニスト


 この3日目こそは本当に想定外の参加だった。初日のモンサンジョンの話を聞いていたら、どうしても「エニグマ」を観たくなり、なんとか都合をつけて、またしても銀座に出かけた。以前にも観たことのある映画だが、とにかく、おもしろい。リヒテルがカメラの前で独白している、どうして彼のこんな表情をカメラに収めることができたのだろう、あの気難しい(変人の?)リヒテルの長時間インタビューがどうして可能だったのだろう、彼はどうしてモンサンジョンのカメラに向かってここまで露わにいろいろなことを語ることができたのか…その疑問が湧いてくるほど、意外なリヒテルの語りと表情。音の悪い、古いフィルムから抜粋された彼の昔の演奏風景すら、なんと異様な迫力を持って迫ってくるのだろう。ほんの一瞬の演奏の断片にすぎないのに。映画の内容(そこで語られている事柄)は文字にすれば人に伝わるだろうけれど、語り続けるリヒテルの表情や声のトーン、断片的な演奏風景から伝わってくるもの(=感覚的なもの)、それに最後の沈黙、ああいうものは映画でなければわからないだろう。磨かれた石のすべらかさは、実際に手で撫でてみなければ「実感」としてはわからないように。

 この日は「エニグマ」の前にヴァイオリンのヴァレリー・ソコロフを描いた「Natural Born Fiddler」、ピアノのピョートル・アンデルジェフスキを描いた「ディアベッリの主題による33の変奏曲」の2つの映画も上映された(その2本は時間の都合がつかなかったので観ていない)。「夜の部」のミニ・リサイタルではこのアンデルジェフスキがバッハの「イギリス組曲 第6番」を弾いた。映画上映後、「夜の部」の開演までの30~40分の間、ホールが閉鎖されたため、しょうがないので上の階の自動販売機コーナーに行った。昭和28年(1953年)に建てられたというホールだから、全体に古き良き昭和の香りが漂っている。なんともレトロなホールで、昔むかし、街中にあった小さな映画館のようでもある。自販機コーナーの辺りにもそんな「プチ昭和」の香りがそこはかとなく漂っているが、なんとそこにいると、中でリハーサルをしているアンデルジェフスキの音が漏れて聴こえてくるではないか。「プチ昭和」の雰囲気に包まれ、かすかに響くバッハ。情緒があった。

 当初、発表されていた「夜の部」の予定では、モンサンジョンと彼の著書『リヒテル』を翻訳した中地義和さんの2人による「対談」となっていた。しかし、この「対談」がはじまる直前になって、椅子が3つ用意され、急遽、アンデルジェフスキが加わっての「鼎談」に変更された。なお、1日目、2日目の「鼎談」は英語と日本語で行われたが、3日目は全員、フランス語で話せるからということだろう、フランス語で行われた。3日目ではリヒテルへのインタビューがどのように行われたかが明かされて興味深かった。リヒテルはカメラやマイクが大嫌いで、それらが自分の目に入らないのであればインタビューと撮影を行ってもよいと許可を与えたそうだ。少しでもカメラやマイクがある気配がしたら、そこで撮影は終了となると告げられたとのこと。そのため、モンサンジョンは映画の撮影に際して、カメラとマイクを隠す工夫をしなければならなかったそうだ。あのリヒテルがあそこまで自分について語る(遺言のように語る)というのは驚きなのだが、カメラやマイクを隠せという指示があったとしたら、なんとなくわかる話という気もする。

 ところで、リヒテルがネイガウスに師事した当時を回想する「ネイガウスの声」が画面から流れてくる場面が映画の中にある。あの「ネイガウスの声」の録音はどうやって見つけたのかとの会場からの質問に、「あれはモンサンジョンが自分で吹き込んだ声」という一撃。ネイガウスのアクセントだったらこうだろうというロシア語を自分でマネして(彼はロシア語が話せるから)録音し、古い録音に聞こえるように処理したとのこと。私はすっかり「ネイガウスの声」だと信じていたけれど、「モンサンジョンの声」を聴きなれている人たちは「あ、モンサンジョンだ」とすぐにわかったようで、いささか悔しい。(騙されたことが悔しいのではなく、それが演出として作られたものだということを見抜けず、うかうかと「ネイガウス本人の声」だと真に受けてしまった自分のうっかりかげんが悔しいのだ…)

 2日目に披露された逸話だったと思うが、グールドとメニューインの共演を収録した際、最後の音をメニューインが間違えたにもかかわらず、それを撮り直すことができなかったとモンサンジョンは言った。そこで編集作業をしていた彼は、ぱっとひらめき、自分のヴァイオリンを取り出すと、メニューインをマネて音を出し、録音してみた。試行錯誤して自分のヴァイオリンの音を録音し、それを映像にかぶせたら、見事に決まった。出来上がった時、自分には天国にいるグレンが「よくやった!」と喜んでいるように思えた云々。これは私にはかなりけしからん話に思えるし、こんな話、ここでしていいのかと思うほどのきわどさも含まれていると思うのだけれど、モンサンジョンはあっけらかんとして楽しそうに笑っていた。宮澤さんの補足説明が入って、その編集されたものはヨーロッパでのみ放送されただけで、「グレン・グールド・コレクション」には未修正のオリジナルのテイクが使われたとのこと。モンサンジョンとしてはそれが不服だったらしいけれど、そのことを取ってみても、「ドキュメンタリー」とか「事実性」の意味について、彼と私の考え方、解釈の仕方には少し開きがあるのだなと感じられた。

 制作者が思い描く筋書き(=制作者が信じる事実)に、ある程度見合うよう、「事実」をまとめ上げていくのもドキュメンタリーの1つの手法なのだろう。極端な例だが、マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバン」を観た時には、「ドキュメンタリー映画を名乗る誇大妄想」だと思ったのだが、ムーアが言おうとしたのであろうことは伝わってきた(と私なりに思う)。ムーアにしてみれば、それが観ている人に伝われば、自分の映画がドキュメンタリー映画ではないと言われようが、どうでもよいのかもしれない。モンサンジョンがメニューインの音に自分の音をかぶせた映像を「番組」としてヨーロッパで放映したという話を聞いた時、私が思い出したのはこのマイケル・ムーアの作品を観た時に感じたことだった。銀座での3日間のイヴェントはとても楽しかったし、私は「語り部」のようなモンサンジョンの口調、人柄が大好きになったのだけれど、ドキュメンタリー映画に対する彼の考え方については、少しついていけない部分があるとも思った。けれど、だからといって彼の作品のすべてを否定するにはあまりにも惜しい。なぜなら、確かにおもしろい映画だから。たとえば「ネイガウスの声」は「やらせ」だとしても、映画の中でリヒテルが語っている言葉は(沈黙まで含めて)確かにリヒテル自身の言葉なのだから。映画の制作者の言いたいことを斟酌しながらも、そこで加えられたものをフィルターで濾過して、さらなる奥深い真実を読み取ろうとすることは映画を観る側の問題でもあるだろう。そして、たとえ「ドキュメンタリー」と銘打たれていても、そこで描かれていることをすべて鵜呑みにするようなピュアさは捨てて、ある程度の猜疑心を持って接することもやはり必要だと改めて感じた。

 蛇足かもしれないけれど、いずれの日の鼎談部分でも、モンサンジョンの意向で、客席との対話が重視された。客席にいる人たちは鼎談を黙って「拝聴」するのではなく、いつでもよいので率先して発言して参加しほしいという要望がモンサンジョンから再三あった。私だけではないだろうけれど、そういう形での大勢での対話には不慣れだからか、あるいは、遠慮もあってか、最初のうち、客席からの発言は控えめだった。けれど、3日目あたりになると客席にいる人たちもだいぶ打ち解けてきて、最後は別れ難いほどモンサンジョンと親密な雰囲気を作ることができたのではないかと思う。あらかじめ立てられたテーマこそは3日間とも独立していたけれど、実際にはその内容は密接に絡み合っていた。たとえば2日目で、盛り上がったけれど時間が来て中途半端なまま終わってしまったグールドの話題が、3日目にうまくつながれ結ばれ、そこからリヒテルに話がつなげられた。3日目の終わりになって、ソコロフが客席から加わって改めて紹介された。そして終演直前にはモンサンジョンから「フェスティバルのような今回のイヴェントには深く感謝している」という趣旨の挨拶と、来場した人たちへの感謝の言葉があった。参加した多くの人にとって、考えるところの多い、興味深いイヴェントだったのではないだろうか。

 本当におもしろかった。しかし、長かった。そして、疲れた…。参加者のみなさん、本当にお疲れさま…。

(文中、一部敬称省略)

→ 3日間のデータ