2005年 10/23 サントリーホールイーヴォ・ポゴレリッチ (2)

 さて、前に書いたものの続きを書こう…と思っているうちに、あっという間に正月休みも終わってしまい、ふと気がついたら…なんと、2007年のポゴレリッチ東京公演の初日(1月12日金曜、サントリーホール)も終わってしまった…。月日の経つのは早いもので…と、とぼけたことを言っていると玉手箱を開けるまでもなく、その前に白髪三千丈の相貌にならないとも限らないので(?)、急いで続きを書き上げてしまいたいと思う。

●演奏予定曲全曲の変更

 演奏会は「ナマモノ」「ミズモノ」で、予定の変更はよくあることだから、多少の変更で驚くことは最近ではもうあまりないけれど、事前に発表されていた曲目が全部変更になった公演にはさすがにあまり出かけたことがない。(とはいっても、今すぐに思い出せないだけで、まったくないこともないような気がしないでも……たとえば、出演者2人のうち1人が出演キャンセル、もう1人はそのまま出演、で、曲目が全部変更になったのがゲルネが来日をキャンセルした時。「冬の旅」の伴奏をするはずだったブレンデルが1人でリサイタルをやったのは、あれはどういう種類の「変更」に数えればよいのでしょう…?)

 曲目の変更が本当に直前だったことにも驚いた。日曜が本番なのに、緊急アナウンスが木曜。ポゴレリッチの世界では何でもありなのかなあと思っていた予想はやっぱりその通りなのかもと、このことからも感じられ、彼のリサイタルに出かける前に「何が起きても驚かず、演奏だけを虚心坦懐のうちに聴いて帰ってこよう」という心構え(?)につながった。

●剃髪ポゴレリッチ

 スキンヘッドになったという噂は耳にしていたが、実物を目にするまでは信じられなかった。彼の若い頃のCDを以前はよく聴いていたが(たとえばスカルラッティ)、そうしたCDのジャケ写の彼と「すきんへっど」という単語自体がまったく結びつかなかった。しかし、考えてみれば、今の私には「髪があった時代のエッシェンバッハ」の姿がまったく想像不能になっているので(数年前までは「髪のないエッシェンバッハ」が想像不能だったのに!)、一言で言えば、これは「慣れ」の問題なのだろうなあとも思った。とかと思いつつサントリーホールに出かけ、彼の表情がギリギリ見えるか見えないかという位置から実際に舞台に登場した剃髪したポゴレリッチを見た時には、それでも、やはり(かなり)驚いた。

 ちなみに数日前に出かけた今年のリサイタルでは…その姿にすっかり慣れてしまった私がいた…。

●その行動…

 彼はピアノを弾きながらいろんなことをやった。咳払いもしたし、座ったまま手も使わずに椅子を前にずらしもした(手が使えなかった理由は、その時、彼はピアノを弾いていたから…)。間合いの長い、そして深い、延々と続く(ホール内にこだまする)彼自身の呼吸音…。(一説には「鼻息」) こうしたことを彼はわざとやっていたわけではないだろうけれど、客席は異様な緊張感に終始包まれていたのに、演奏している本人がどうしてこんなにリラックスしているのだろうと、その妙なちぐはぐさに少し驚いた。

●時間の感覚の停滞

 演奏のテンポが「遅い」という情報はオンライン/オフラインの両方から得ていたので、それなりに覚悟はしていたが、そのテンポ感は私の想像をはるかに超えていた。ただ単に「遅い」というのとも少し違っていた。実際にはすべてのパッセージが遅く弾かれたわけではなく、緩急の区別は明確だったのだけれど、遅いところはひたすら遅く、しつこく遅く、やたら遅く、ものすごく遅く、その超絶に「遅い」パッセージは私には音が止まっているように感じられた。ひとつの音は引き伸ばされ、止められ、それが息絶えてから、やっと次の音が鳴らされる…という印象だった。彼が遅く弾いていた時には、音楽は流れていなかった。だから、本来は生き生きと流れ去っていく中で音の形をイメージとして聴く側の心象に結んでいくはずのフレーズはぼやけて消滅していた。それを聴いているうちに、だんだんと自分の感覚が麻痺してしまい、何の曲を聴いているのかわからなくなってきた。音を感じるとか、眼前で繰り広げられる演奏について考えるといようなことも私は困難な状態になった。もちろん私は寝ていたわけではない。むしろとても覚醒した状態で聴いていた。そこで感じたのは「廃墟」のような何かとても荒廃した世界だった。けれど、とてつもなく美しい瞬間も時々、ふと立ち現れたから、まるで、凄惨な場面で美しい花の姿を一瞬垣間見たような気がした。

●「両極端な聴衆の反応」

 この時は怒っている人には遭遇しなかったけれど、前半が終わったところで既に相当びっくりして、客席内でやや呆然としていた人、あの演奏をどう受け取ったらいいか戸惑っていた人・困っていた人がいたことに気がついた。終演後も、ホールから駅までの道すがら、彼の演奏について議論していた大勢の人たちとすれ違った。

 前回、彼のリサイタルを聴いた時にはあそこまでデフォルメされていなかったし、確かに変わったショパンだったけれど、「なんだ、あれは…」とこちらが戸惑うスキもあった。が、2005年のリサイタルではそういうことさえ考えることが私にはできず、ただ、あっけにとられた、というのが正直なところだった。「変な解釈」だとか、そういう次元ではなくて、それを超えた、もっと異質な何かだった。

 異質な…。確かに彼はどのピアニストとも違っていた。そして、このリサイタルに対する聴衆の反応は両極端に分かれたと言っていいと思う。ある人たちは「彼は前人未到の地へと進化し続けている」というようなことを言って絶賛し、ある人たちは「昔のあの才能はどこに行ったのだ。もはやその片鱗もない」というようなことを言って深く嘆いていた。私は前者ではないし、かといって後者でもない。私には彼がどこに行こうとしているのか、何をしようとしているのか、その演奏からは想像ができなかった。だから彼のリサイタルからは目が離せないし、機会があれば、たまには実際にリサイタルを聴きに行ってみて、彼がこれからどう変わっていくのかを長いスパンの中で見てみたいと思った。

※とりあえず、ここで1度終わって、後日、2007年のリサイタルの話を書くつもり。