紀州、有間皇子終焉の地 (1)

(紀州篇のつづき)

 和歌山城を後にし、和歌山駅に向かう。次の目的地は紀勢本線の海南駅の近く、藤白神社。途中、電車の中から紀三井寺が見え、帰りにでも立ち寄ろうかと迷ったが、駅からお寺までの道がのぼっているのが電車の中からも見てとれ(道がのぼるというより、お寺は山の上にある!)、これほど暑くなければと残念に思う。ほどなくして海南駅に着く。

 海南での目的地は有間皇子神社と藤白の坂の入り口近辺にあるという皇子のお墓とされる場所である。駅前からタクシーで藤白神社を目指す。この藤白神社は斉明天皇が紀の牟婁の湯への行幸の際に創建した祠に由来するそうだ。当時はすぐ近くまで海が迫っていたそうだが、今は小高い場所になっていて、海の気配も感じられない。かつてはここに熊野詣の人々にとってとても重要な藤白王子があり、熊野九十九王子の五体王子のひとつとして熊野詣の参詣者の信仰を集めていたとのこと。

 この藤白神社の境内の片隅に有間皇子神社があった。

 有間皇子は斉明天皇(重祚して斉明、もとは皇極天皇)の同母弟の孝徳天皇の皇子であり、血筋から言って、天皇の後継者として有力な位置にいた。非常に賢い人物だったと言われるが、賢すぎることは身の危険につながると悟り、狂人の振りをしていたとも言われる。しかし、謀反の疑いをかけられ、捕らえられ、湯治のため紀の牟婁に滞在していた斉明天皇のもとに送られ、そこで詮議を受ける。そして再び都に戻される途中、藤白の坂で絞首刑に処せられた。この皇子の「謀反」と呼ばれるものは中大兄皇子らの策略であり、無実の罪だったのではないかと言われている。

 この時、皇子が紀で詠んだとされる歌が万葉集に有間皇子自傷歌として収載されている。

磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
  (万 巻ニ・141, 142)

 後岡本宮御宇天皇代 有間皇子自傷結松枝歌二首

磐白乃濱松之枝乎引結真幸有者亦還見武
家有者笥尓盛飯乎草枕旅尓之有者椎之葉尓盛

 
 
 これらの歌は、歌だけを見れば有間皇子の史実とは結びつかないから、(諸説はあるだろうけれど)当時の古謡が皇子の悲劇と結びついて万葉集に収載された可能性があるのではないかと思われる。とはいえ、この一見のどかな2首の歌と有間皇子の悲劇が結びついた時、読み手の心の中に劇的な感動を与える。万葉集を代表する名歌であり、たいていの万葉関連の本にはこの歌と有間皇子の悲劇が書かれている。歌人としての有間皇子と彼の自傷歌は古来より多くの人々に愛されてきた。

 有間皇子神社は想像以上に小さいお社だった。間違いなく、この地は全国から多くの万葉ファン、研究者、歌人らが集まる「万葉の聖地」のひとつだろうが、そうと思えないほどひっそりしているところがすこぶるよい。この静寂の中で、人は皇子の悲劇と歌に思いを馳せ、感動を新たなものとするだろう。(私は静かなお社の前でそうできた)

 お社には大学ノートが置かれていた。山小屋などにあるようなメッセージノートで、来訪者が自由に書き込みを残せるようになっていた。私は何も書いてこなかったけれど、ざっと見みてみたら、やはり皇子の歌が好きで、そして皇子の悲劇に同情している多くの有間ファンが日本中から参詣している様子がうかがえた。陽の照る中、静かで人の気配もない境内なのに、ノートの中には大勢の人たち(私と共通の感性を持つであろう、たくさんの見知らぬ人たち)の息吹が感じられ、とても不思議な気がした。

(つづく)

●関連リンク
有間皇子について
Wikipedia
「飛鳥の扉」サイト内のページ
 
万葉集原文
ピッツバーグ大学とバージニア大学による公開ライブラリー

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紀州、和歌山城 (1)
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紀州、和歌山城 (3)
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