これまたいささか古い話になるが、2年前の春、所用があって広島に出かけた。昨日書いた浜松の所用はリサイタル(シューマン含む)、広島の所用は広響の定期(当然、シューマン)。コンサートのことはいずれ書く機会もあると思うので、今は広島の印象を書いておきたいと思う。
直前まで(というか2日前まで)出かけるか否か迷った上での旅の空。名所旧跡を訪ねることも特になく、トンボ返りの慌しい日程だった。天気がいささか心もとない中、それでも雪をいただいた富士の山は絶景かな、今日は美しいものが見られそうな予感と思えばさにあらん。西国の春は早いのか、東国北国であれば春まだきの季節だったが、空路訪った彼の地は既に春爛漫、花咲き乱れる季節だった。そろそろ目的地に到着かという頃、窓から外を見晴かせば、霞たなびく暮れはじめた瀬戸内の海上に無数の小島が重なるように浮かび上がり、幻でも見ているのではと思うほどの美しさ。名人の描く水墨画もかくやあらん。これぞ幽玄の趣き。機体が山中に置かれた空港に近づけば、山のそこここに、あれは山桜か、白い花が樹木の間からにぎやかに奏で鳴るごとく目に映る。目で見る空中の音楽。海には幻のごとき島影、地には美しい花々。ゆえに飛行機が舞い降りたのは空港ではなく、平家物語の中なのだとわかった。
翌日、東国に戻る前に平和記念公園だけは見ておこうと思い立った。ホテルから平和記念公園を抜けて空港行きのバスが出るバス乗り場までぐるっと歩いて行けることを確認し、まずは平和記念公園へと向かう。その途中で見かけた愛宕池と白神社のことは書いておかなければならない。
旧国泰寺境内跡地の愛宕池
旧国泰寺は1594年創建の曹洞宗の古刹。お寺は昭和50年代によそに移転、境内にあった愛宕池が跡地として保存されているようだった。旧国泰寺の創建前から、この辺りに鎮守愛宕社があったとのこと。岩だらけだが、これらの岩は元々は海の中にあった岩礁で、隣接する白神社の境内の岩礁と地下でつながっているとのこと。共に広島城の築城当時はこの辺りに海岸線があったことを今に伝える遺構。ホテルから平和記念公園に向かって通りを歩いていたら、広い通りの真ん中にこの遺構が出現したので驚いた。現代の都市空間とせわしない時間の中に置かれた小さな一角だけれど、鬱蒼とした緑の中、この場所だけ時間が止まってしまったかのようで、不思議な気配に満ちた空間だった。
白神社(しらかみしゃ)
この辺りが海だった時代、ここにあった大きな岩礁に船が衝突しては海難事故が起きたことから、渡海難所の目印として白い紙を掲げ、それが転じて「白神」と称されるようになったとのこと。後に1475年、大友時盛が社殿を建立したのが「白神社」の縁起だそうだ。戦国時代には広島の総氏神だったというから、当時はとても重要な社だったのだろう。爆心地に近いため社殿は被爆により焼失。すべてが焼き尽くされた跡に、昔から神聖なものとして祀られてきた巌だけが昔の姿のままで残ったというところに深い含みがある。そして、このことを考えると、いかに多くの尊いものが一瞬の閃光の中で消滅してしまったのだろうと思わずにいられない。胸が痛む。
社殿は岩礁の上に築かれているという説明書きを読み、下を覗き込んでみた。確かに天然の岩礁があった。威容というより猛々しいという言葉が似つかわしい。その猛々しい姿から発せられるのは不思議な静けさ。力強い清浄さ。身がすくんだ。何かとても大きな音が聞こえてくるような気がしたのだが、実際には飲み込まれそうになるほどの静けさに満ちていた。これが「気」なのか。「気」が満ちるとはこのようなことなのか。強い印象を持った。東京に戻ってからこの白神社の話をある人にしたところ、「昔の人たちは何か不思議な力を発する神聖なスポットというものを直感的に感じ取って知っていて、そういうところに神社やお寺を創ったらしい。神社やお寺というのは、神さまが祀られているから、仏さまが安置されているからありがたい、というだけではなく、その土地が発する強い気に引き付けられて人が集まってくるのかもしれない」云々というような話をしてくれた。なるほどと思った。あの岩礁には神が宿ると古代の人が感じたとしたら、私にもその理由が理屈ではなくわかったように思える。この体験は忘れがたい。
(つづく)