(つづき)
広島平和記念公園
前日から天気が不安定だったが、この日は薄曇り、時折小雨模様の頼りない天気。大通りは行き交う車も少ない。満開と言うにはやや早い、いずれも五分咲き程度であったか、目を楽しませるのには十分な桜の花々を見ながらのんびりと歩く。午前も半ば、平和記念公園に至る。雨に洗われた新緑が美しい。芽吹き時を迎えた樹木と咲き初めの桜の花々に囲まれ、慰霊碑が眠るように静かに佇んでいた。穏やかな空気に包まれているが荘厳である。とても物悲しい場所だと思った。これまで、いろいろな情報源からヒロシマと原爆の話を得てきて、原爆にゆかりのある場所はとても怖い場所、恐ろしい場所だというイメージを私は長い時間をかけて頭の中に作り上げてきた。だからきっと平和記念公園も死や破壊とイメージの連なる荒涼とした場所なのだろうと思い込んでいた。しかし違った。実際に訪ってみて、広大な公園全体が「祈りの場所」のように感じられた。たくさんの人の祈りによって浄化された清らかな場所に感じられた。祈りと癒しの念に満たされた場所で、白神社とは違った種類の「気」の強さを感じた。
原爆ドーム
日本の平和教育・平和運動の象徴「原爆ドーム」。写真や映像で何度も見てきたのに、明確なイメージがないままだった。60年も前に灰燼に帰した廃墟だから、当然のことながら「瓦礫の山」だった。私はこれまで戦争で破壊された建物などは見たことがなく、「これが戦災の証なのか」と思うとなんともいえない気持ちがした。この上空で炸裂した爆弾の閃光と高熱によって焼き尽くされ、建物の中で働いていた約30人もの人が即死したという事実は恐ろしい。だが、ここもまたたくさんの人々の祈りの念によって浄化され、清められ、一言では言えない特別な場所へと変化したのではないかと感じた。小雨が降る中、剥き出しの鉄骨に、あれは鳩だろうか、鳥が一羽止まっていた。その瞬間は静かで穏やかな、音のない世界だった。廃墟であり、記念碑であり、そして墓標でもあり…。
70代の人たちだろうか、年配の一団が私の後方に近づいてきた。中の一人がビデオを手に原爆ドームを撮影していた。廃墟の外壁沿いに敷き詰めれていた瓦礫を撮影しながら、「なつかしいね。あんな瓦礫の上をはだしで歩きまわったんだ…」と(恐らくはビデオのマイクに向かって)語りかけていた。原爆ドームの説明プレートを黙って、そして食い入るように見つめていた外国人。家族連れだろうか、少年もいた。彼らの押し黙った様子、緊張感が印象的だった。園内ではいずこにおいても自然と頭が垂れる。亡くなった多くの方の冥福を心から祈る。ここでは人は穏やかで内省的な気持ちになる。祈らずにはいられなくなる。小雨まじりの天気のせいだろうか。自分自身の内部も清められたような気がした。
日は照ってはいないものの、季節は家持歌うところの「うらうらに」。空港へのバス乗り場まで、市内をゆっくりと散策し、やがてバスに乗って空港へ。再び空の客となる前に、空港にて名物の穴子丼を食す。美味。
広島で撮った写真を簡単にまとめた。 → ふろく写真集