石棺の蓋 : 補足

 今ざっと調べたところ、長持形石棺は古墳時代中期に出現、後期の初め頃まで用いられた(ということはそれ以後は消滅した)ものとのこと。図書館に行けないので専門書を調べていないから、これは理解として正しいかどうかわからない。

 仏教思想の流入と共にお葬式や埋葬の方法がある程度変化した。もちろん、飛鳥時代にも古墳は作られたが、朝廷によって規定が定められた(これは646年(大化2年)の「薄葬令」による)。たとえば、日本になかった火葬の習慣が取り入れられた。文献に残る日本最初の火葬は700年(文武4年)に行われた僧道昭のものとされる。また、当時、火葬が行われていたことを示す文献として、よく知られているのが万葉集で、中でも人麻呂の挽歌が知られている。

 ともかく、仏教思想の流入と埋葬方法の変化に伴って、大型古墳は造営されなくなった。ところで、聖徳太子と蘇我氏は日本に仏教を定着させようとして、古い神を祀る物部と対立し、激しい戦闘を経た後、ついには物部氏を滅ぼしてしまう。この物部との戦いの時に聖徳太子は勝利を念じて四天王像を彫り、戦いに勝利したら四天王のための寺院を建立することを誓ったとされる。後年、推古帝が即位するとすぐに四天王寺が最初の大寺(官寺=国の寺)として聖徳太子によって建立される(593年(推古元年))。四天王寺は聖徳太子と蘇我氏の連合軍が朝廷の反仏教派に勝利したことのシンボルであると同時に、聖徳太子が仏教を国の宗教として広めて行こうとする決意の1つのあらわれのようなものだと考えられる。だから、そこに仏教導入以前の古い時代の名残である石棺の蓋があるというのが、非常におもしろいと思った次第。

 そもそも聖徳太子は「難波の荒陵(あらはか)」(古墳)にこの四天王寺を建立したと書紀にはある。そこで四天王寺は荒陵山と号し、荒陵 (あらはか)寺とも呼ばれるという。平安時代に編纂された『水鏡』には元は(物部との戦いの折に聖徳太子が陣を敷いていた)玉造の峰に建立した寺を、推古元年、太子に立った時に難波荒陵に移した、とある(「今年四天王寺をば難波荒陵には移し給ひしなり。元は玉造りの峰に立て給へりき」)。かなり後の時代の記述なので、これはどうかと思うが(寺の跡も特定されていないそうなので、現存したものではないという説もあるようだ)、これはこれで興味深い説だと思う(個人的には玉造という語が意味する地名に非常に興味を覚える)。門前に鳥居があるのも不思議なら、石棺の蓋があるのも不思議。最初は玉造の峰にあったとされる古い歴史書の記述も不思議。そうそう、あの老婆も不思議だった。不思議なお寺だと思う。

●当時の火葬については
http://www.asukanet.gr.jp/...
(奈良文化財研究所 飛鳥資料館 http://www.asukanet.gr.jp/ )

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石棺の蓋 : 補足
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