四天王寺から神戸に至る (4) - 石棺の蓋

 さて、不思議な老婆の言葉に従って「外の門の仁王さん」を見た後、再び境内に戻り、目的の宝物館を探した。そもそも、この日、四天王寺に出かけたのは、直前にたまたまアクセスした四天王寺のホームページで、「聖徳太子十七條憲法制定1400年記念展」が宝物館で開催されている旨の案内を見たからだった。そうでなくとも四天王寺といえば舞楽の殿堂であり、たとえ舞楽の季節でないから舞楽そのものは見られないとしても、舞楽に興味や関心を持つ人ならば1度は訪れておきたいと思う場所の1つだろう。「高僧」(私がふだんふざけてこう呼んでいる某友人)の大阪の実家に仏事で来るお坊さんは、この四天王寺の舞楽で舞いを担当している人だという話は以前からよく聞いていた。これとは別に、ずいぶん前、もうかれこれ10年ほど前のことになるか、梅原猛さんのたいへん興味深い著書『隠された十字架』(※1)を読んで以来、四天王寺に1度は足を踏み入れてみたいものと思っていたから、十七条憲法の記念展がちょうど開催中というのは、出かけるには都合のいい口実だった。

 新しい仁王像のある東大門のあたりには参詣の人や観光の人の姿はあまりなく、私が行った時には近所の幼稚園か保育園の子供たちが大勢いて、とても賑やかだった。芋掘りの帰りなのか、大きな袋がいくつも地面に置かれ、その中に泥のついたサツマイモがたくさん入っているのが見えた。宝物館はこの東大門のすぐ近くにあったが、おもしろいことに、ちょっと宝物館に近寄っただけで、先ほどの子供たちの賑やかな騒ぎはあっという間に消え去り、不思議な静寂が道の上に立ちこめていた。

 宝物館は最近の建物だが、高床式の外観は正倉院を思わせる。もちろん、往時の姿のままで残っている正倉院の方が古いのは当たり前なのだが、よく考えてみれば、四天王寺というお寺の創建そのものは正倉院より古いのだから(何しろ東大寺より100年以上も古い)、やはり古いお寺だと思わずにはいられない。宝物館の入り口は高い階段の上にあったが、その階段の真下あたりに、まるで花壇の植え込みか何かのような感じで、巨大な石が置かれていた(※2)。なんと、お寺の境内に長持形石棺の蓋がある! 仏教が日本に入る以前の、古い信仰や死生観に深くかかわるであろう豪族の古墳から出土した遺物が、無造作とも思えるような形、というより、野ざらしでお寺の境内に展示(?)されているとは…。豪快というか、おおらかというか。(この豪快さ、おおらかさは、四天王寺が創建された飛鳥時代の気風に通じていると思えなくもない…) この石棺の蓋の由来はよくわからないが、もしも四天王寺の建立に際して付近から出土したものだとすれば、それはそれで興味深い。被葬者が誰なのか、今となっては知るよしもないけれど、死者の名も生前の功績も、それどころか被葬地さえも伝わっていなくとも、死者を保護していた器だけが千数百年も先の未来にまで残り、お寺の境内に置かれているというのはとても壮大なことだし、不思議なことだ。

(つづく)


四天王寺の長持形石棺の蓋

●そもそも、長持形石棺とは何か?


(※1)この本は「法隆寺論」という副題だけれど、聖徳太子の謎を推理小説のように解き明かしていく中で四天王寺についても触れている。いろいろな理由から、この本の内容を真実(あるいは事実)だと思うことはとてもできないのだけれど、推理「小説」のようなものだと思って読んだので、とてもおもしろく読み終えることができた。[もどる]

(※2)四天王寺に掲載されている宝物館の写真には写っていないので、この写真が撮られた後、ここに置かれたものなのだろう。[もどる]

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四天王寺から神戸に至る (1)
四天王寺から神戸に至る (2)- 転法輪
四天王寺から神戸に至る (3) - 仁王像
四天王寺から神戸に至る (4) - 石棺の蓋
石棺の蓋 : 補足
四天王寺から神戸に至る (5) - 太子の御衣
四天王寺から神戸に至る (6) - 極楽浄土の庭
四天王寺から神戸に至る (7) - 異人館をめぐる

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